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*その1誕生
*その2名前は何にしよう
*その3産みの苦しみ
*さあ発売だ
*あの事件は突然に
●その1誕生
第2回のオールホンダアイデアコンテストにてアイコン大賞、アイデア賞、 特別賞等を総なめにして話題を攫った第五設計室に、この豊かなアイデアを 活かすべきだとの事で汎用開発に属していたレジャーグループが編入された。 その頃レジャーグループはスノーモービルの研究と柔らかいタイヤの3輪バギー車等 の開発をやっていた。 その全く毛色の違ったレジャーグループを任された我々は何か新しい物をやろうじゃないかと考え 色々模索を始める事になった、当面は雪上車と3輪のバギー車の開発に主力を注ぎその他に 可能性を追求して色んなアイデアを片っ端から取り上げ研究し商品化の検討をおこなって行った、 その中から選ばれたアメンボ―ト等が量産化がされたがいずれもヒットにはならなかった。 これら一連の開発が一段落した頃アメリカではやり始めたというスケートボードが持ち込まれた、 我々は早速テストコースへ持ち出して皆で乗って遊んで見ることにした。 所がこれがなかなか難しい代物でとても私等には乗りこなせず、下手すると転倒 してあわや怪我する所だった。 ご存知の様にスケボーは前後に特殊なハンドリング機構がついていて、乗って いる板を傾けた方に曲がって行くがバランスが難しくかなりの熟練が必要とされた、 しかしこのハンドリング機構は非常に魅力的で、私はこれを何とか生かして 変わった乗り物が出来ないかと色々アイデアをテストして見ることにした。 先ずぐにゃぐにゃするのを減らすため前後にあるハンドル(ステアリング)機構 を後ろ側を固定して曲がらない様にして見た、かなりぐらぐら感が無くなり乗り やすくなったがまだまだ素人が扱えるようなものでく、バランス感覚と運動神経を 要求された、しかも何度もテストしているうちバランスを崩し足がすべりスケボーが 勝手にすっ飛んで行くことが度々あった。 そうだ何か掴まるものを付けてみよう!と早速勝手に走っていかないような 紐付きと、掴まれるハンドル付きの図面を書いて作って貰った、これはかなり巧く コントロールできる様になった、特にハンドル付きは簡単にコントロール出来て非常に 乗りやすいものだった、これはいける!!私は何か掴んだ感じだった。 折角面白そうな乗り物が出来たのだがこれだけではあまり価値のある商品になり そうも無かった、何か付加価値を付けないと、と考えた結果、これに小さなエンジン を付けてみる事にした、丁度草刈機についていた25ccのエンジンを付け ハンドルにスロットル(アクセル)をつけてみた。 これはなかなか面白かった機体を倒した方に適当に曲がりながらアクセルでスピード をコントロール出来るので適度なスポーツ感覚があり楽しめた、しかし最大の問題が これには存在した、それはエンジンを付けた途端にこれは原動機付き自転車と なって免許が無いと乗れないものとなり又、認定などの難しい試験等が必要 になってしまうことだった。 我々はこの捨てがたいコンセプトに何らかの活路を見出すために実際に使いそうな 子供達を集めてテストする事にした、テストには私の息子など開発者の関係者の 子供達を日曜日に集めて乗らしてみる事にした、子供達はウキウキとして 集まってきた。 用意された機種はオリジナルのスケボー、後輪のステアリング機能を取り除いた もの、にそれぞれ紐付きと、ハンドル付きと用意し、更にエンジン付きも用意した、 そして子供達に順に乗せて様子を観察していた、やはり一番人気のあるのが エンジン付きのもので奪い合いとなった、単にハンドルが付いたものも人気 があったが、やはり足で地面を蹴る動作がつかれるのか飽きがくるのが早かった。 最初から予想された結果となったが私は自信を持った、これを何とかして適当な 駆動方法をつけた商品としてまとめて見ようと知恵を絞る事とした、チームの中の W君がワンウエイクラッチを使ってこれをチエンで駆動してはどうかというアイデア を出した、問題はそのチエンの駆動だった使えるのは片足のみだ!、そうだ 何かキックレバーの様な物を付けて操作して見よう!と早速計画図に取り掛かった。 構造は意外と簡単に決まった、空いている片足でレバーを後ろに蹴りその時に 車軸につけた小さなワンウエイクラッチ(自転車の後輪に付いている機構)を駆動し 足を離すとスプリングでレバーが前方に自動的に戻る様な機構とした。 一週間ほどして試作品が出来あがった、私達は早速テストして見たがこれは最初 から珍しく一発で巧く行った試作品だった、適度なスピードと体重移動による ステアリング感覚は新しい魅力を出していた、後は細かい不具合いなどを直せば 良いだけとなった。 これがあのローラースルーの誕生の瞬間だった!我々はこれを今度はどう やって商品として売り出すかが次の大きな課題として立ちふさがったのだった。 第一話 完 ●その2名前は何にしよう
どうにかスケーターの原形は出来上がったがどうやって売れば良いのか 又、なんて名前をつければ良いのか、開発メンバーはまさに「ノー アイデア」 であった。 それでも名前が売れ行きを左右するような気もしたし、かと言って何処かの ネーミング会社に委託する程自信もなかった、仕方なしに関係者を7〜8人 集めて造形室で試作品を前にして皆でアイデア出しをする事にした。 試作品は奇麗に真っ赤に塗装されクリーム色のハンドルグリップは端から 色とりどりのリボンをヒラヒラと靡かせ、真っ白なホイールとステップに 付けた滑り止めの黒いゴムマットが対照的できれいだった。 先ずイメージを固めるため走る場所を確保し皆の眼の前で交代に乗って 見る事にした、私は昔子供のころ持っていた鉄の車輪が付いていた前1輪、 後2輪のスケーターの印象が強かったが、あのスケーターはガタガタ走る イメージが強かったがこの開発品は造形室のプラスタイルの上をスーイ、 スーイと走り廻り全然違いローラースケートの様に思えるのだった。 色々な案が飛び出した、「ニュウスケーター」「キックスケーター」 「スウインガー」「ペダルスケート」「キックスインガー」「スケート ローラー」「ローラースウイング」「キッズスケーター」「スーパー スケーター」等など、、どれも何か新しさがなかった。 私は皆の発言を聞きながら試作品が造形室のあちこちのモデルの間を すり抜けるのを見ていて突然ひらめいた、そうだ「ローラースルー」というのは 良さそうだな、頭の中に何かスーッと行く様なイメージが強い印象として湧いた。 「ねえあのさ〜ローラースルーなんていいと思うけどどう?、、」 この発言に一寸間を置いてから殆どのメンバーから 「そりゃ良いね!何かスイスイ行くような感じがする」 との賛同の声がみんなから帰ってきた、確かにスルー(through〜通り抜ける)という 語源と発音のイメージがピッタリと合った名称で我ながら満足した。 私はこの名称にする事に決定し、早速名前の調査と登録を申請した、 幸いな事にこの名前は全く使われていなかった、開発のメンバーは皆 この名前を気に入っていた。 あとで思ったのだけれど、もしあの名づけのアイデア出し会が造形室の 色々な物が置いてある狭い場所で行われ無かったら、この名前は思い付かなかった のだと思うと、発想というものが如何に環境に左右されるものだと切実に感じた。 名前一つでも色々と理由があるものだとつくづく感じさせられる、 ちなみにローラースルーGOGOという名のGOGOは売り値を決めた 後で付け加えられたもので、一時流行ったゴーゴーというダンスの リズムにも語呂合わせをしたものだった、まさかこの時にはこの名前が 日本中の子供たちに知れ渡るとは思ってもいなかった。 このあと私たちには次の苦難(物を作り上げる苦労)が口を開けて 待っているのだった。 第二話 完 ●その3産みの苦しみ
名前は「ローラースルー」という事に決まったが、さて何処で作ろうか?という 所でハタと行き詰まった。 先ず、オートバイのフレームや、四輪車の部品の同様な部品を作っているメーカー に見積もりを依頼した、又、工場に組立ての工数等諸々の経費を見積もっても 貰い集計して見たら予想する売り値より遥かに高い物になってしまった。 これでは駄目だ!構造や作り方を変えなければ、、 然し元々単純な構造はそんなに 変更する余地は殆どなかった、我々は思い余って似たような部品を作っているある 協力会社の幹部に相談した所こんな答えが帰ってきた。 「そりゃ無理ですよホンダさんの品質基準は凄く高くてシビヤだからその基準で 作ったらそうなりますよ、自転車の基準で作るしかないですね!」 「えっそうなんですか!それは何処が違うのですか?」 我々は驚いて何が違うのか聞いて見た。 違いは材料から始まり、型の作り方、製作方法、加工方法、設備、組立方法、検査 テスト、梱包、等など全てとの事であった、現在は違うと思うが当時はまだ自転車 部品工業の底辺はは家内工業等で支えられているのだった。 開発メンバーは紹介してもらったある自転車部品のメーカーに行き徹底した安い 家内工業的な作り方を勉強して見る事に決めて、手分けしてそれらの多い浅草界隈の 自転車の部品屋を廻って使えそうな部品を山程買い集めて来た、そしてそれらの部品を 卓上に並べて、どれが使えるか、コストはどうか、品質は、等とあらゆる面からの 可能性の検討を行なった。 我々は初めてこれら部品の予想外の安さと簡単な作り方に大いに勉強させられた。 その結果、グリップは試作で使ったリボン付きの白い物、タイヤもリムも乳母車用の 流用、キックペダルのゴム迄も使う事にした、作らざるを得なかったのはフレームの 本体と、ステップと上に付く滑り止めのラバーだけとした。 これらの流用品に合う様にパイプのサイズ、材質等も自転車用材に変更され、ステップ とゴムラバーだけは精度は悪いが徹底的に安い型で作って見る事に決めた。 パイプ類は全て溶接を止めロー付けとする事にした、この頃(今もそうかもしれないが) ロー付け(真鍮を溶かしてハンダ付けのようにして隙間を固め接合する加工方法)は手軽 な接合方法として広く使われていた。 次ぎは組立と梱包であったがこれも自転車部品メーカーに依頼して簡単なラインを 工場の片隅に作って貰いパートのおばちゃんにやって貰う事にした。梱包も多少の疵は 無視して簡単なビニール包装とした。 それらの工程を含めて全て原価計算した所やっと希望の線に近いコスト迄たどり着いたが まだ高かったがこれ以上どうする事も出来なかった。 開発メンバーは仕方なしにこのコストをベースにして売価を決め色々なテスト結果、市場 予想等を揃えて決定評価会に臨み、何とか次のステップ、「どうやって売るか?」の 段階に進む事となった。 然し我々には全くこの様なおもちゃの販売ルートのノウハウが無かった、これが又大きな 問題として我々に立ち向かってきたのだった。 第3話完 ●その4さあ発売だ
さて物は出来た、然しどうやって売ったら良いのか我々は何の知恵もなかった、今迄の 製品は売る事には全く気を使う必要はなかった、何と言っても強力な営業部門が試作途中 から色々と研究し売り方を考え、宣伝を考え、販売店にPRしてやってくれていた、然し 今回は営業部門は検討に入っているけど四輪や二輪の販売店を使う事自体疑問視している 状態だった。 でも何とかしなくてはという事で2,4の販売店での販売を検討して貰ったが答えはNO たった、理由は「エンジンが無いので扱えない」との事であった、この為自転車の販売網も 調べたがそこは特別な流通ルートの世界で全く入り込む余地は無かった。 この様な状況の中で一つの明かりが見えてきた、それは丁度少し前に設立された挑戦的? な販売会社、ACT−L、ACTーT、ACT−A、が有った、Lはランドの略で地面 に関係有る物、Tはトレーディングで輸出入を行い、Aはアクアで水に関係有るものを 販売するホンダの子会社だった。 最初はこのACT−L社が販売を担当する事となった。 私達は此処を拠点にして生産計画を立てた、最初は月1000台として小さなラインを自転車 関係の部品をやっている会社に作り上げ販売を開始する事にした。 ACT−L社の人々はあちこちの玩具屋の問屋に足を運び、流通にお願いし、デパート にも売り込みに行った、反応は良かったが、デパートだけは仕入れ価格が厳しくてNG となったが後の所は一応ルートの開拓に成功して何とか販売を開始する事が出来た。 販売を初め少しづつ売れ出したがなかなか伸びてはいかず月1000台の目標は何とかクリヤ した状況だった、一方クレームもボチボチ出始めた、一部の製造不良に依る破損や、予想も しない使い方(1人が乗った物をもう1人が後ろの車体を押して行く事)で手を挟んでしまい 社長が菓子折りを持って謝りに行く事などあって色々忙しくなって来た。 11月半ばになって急にTVで「クリスマスにプレゼントローラースルーGOGO」という TVコマーシャルが放映を開始した、我々もこの情報は聞いていなかったので非常に驚いた 聞く所によると営業担当のO役員の決断だという、、我々は半信半疑でその成果を見守った が矢張りTVの力は強烈で突然の様に販売はぐんぐんと伸び注文が殺到し始めた。 当然町工場的な作り方では生産が間に合わなくなり、ホンダとしても真剣に検討を開始して 従来のホンダ系の部品メーカーに生産ラインを急遽作って対応した。 一方海外にも輸出が検討されACT−Tを経由してアメリカのホンダ系自動車販売店に も出荷される事になった。私も出張でアメリカのデーラーを廻った時一組の親子が来て ローラースルー(アメリカでは「kick'n GO」と言った)を喜んで買って行く微笑ましい 光景を見て発明者として非常に嬉しかった事もあった。 家の近所でも遊んでいる子供たちも増え、TVは新しいCMを流しあちこちで話題にも取り 上げられた、私も「夕刊フジ」等の取材を受け記事になった。恥ずかしい気持ちだった。 我々は次の手を考えたそれは45キロの体重制限の心配の無い大型の物と、本当に2輪で 走る大型の新種ローラースルー7だった。開発は簡単だった、性能も一段と上がり大人が 載っても十分なものでこれで大いに市場を拡大しようと皆が張り切っていた時、あの事件が 発生した、この時生産台数は月10万台となっていた。 あの事件は正に我々を奈落の底に突き落とすもので、こんな惨めな結末が待っていようと 誰もが想像もしなかった。 第4話 完 ●あの事件は突然に
アメリカにおける子供用のATC(3輪バギー車)の企画要件をまとめる為のアメリカ南部の現地 調査を終えて、ロサンゼルスから10時間余の長旅を、水割りを飲みながら映画を見たり、ウトウト しながらやっと成田にたどり着いた、2月も終り頃になるとかなり日が延びて4時半頃だったがまだ 明るかった、スーツケースを転がしながらイミグレーション手前の通路で何か予感がしてふと出迎え 用のメッセージボードを見ると「Mr.T.yoshioka」の文字が目に飛び込んできた。 係りの人に「あのこれ私ですか?」と言ってメッセージを指すと「吉岡伴明さんですか?」と確認 された間違い無い、何だろう?と明けて見ると「お疲れの所申し訳ありませんが、帰りに研究所に 寄って下さい」と書いてあった、全く心当たりが無い、、ともかく箱崎までリムジンバスで急ぎそこ からタクシーを拾って研究所に駆け付けた、研究所に着いたときはもう7時を回っていた、私はスーツ ケースを守衛所に預け、急いで作業服に着替えて設計室へと向かった。 設計室はまだ皆頑張っていた、「どうした!」と言う私の問いかけにLPL(プロジェクトリーダー) は「大変なんですこれです、、」と言って新聞のコピーを差し出したそれには「ローラースルーで 男児死亡事故!今度の入学式を目前の悲劇」という文字が目に飛び込んで来た、私は一瞬背筋 に水を被せられたようにゾーっとして立ちすくんだ。 急いで読んで見るとその子供はローラースルーで遊んでいて曲がり角でトラックの後輪に巻き込まれ たとの事だった、あまりにもショックな事件だった。ローラースルーには簡単ではあるがブレーキは後輪 に付いているこれが効かなかったのだろうか?、私は新聞記事を何回も何回も読み返した。 私はともかくどの様な事故なのか関係者を集めて情報を聞き出したが情報は新聞記事以外全く 入っていなかった。どのような対応を必要とするのか等について検討をはじめたかったが、情報が 新聞記事のみではどうする事も出来ない状況だった、憶測と、推定と、不安だけがどんどん高まって 行くばかりだった。結局その日部下に送って貰って家に帰りついたのは夜半に近かった。 家に帰ってもその事で頭が一杯だった、普通なら子供たちへのお土産等で賑やかな笑い声で 埋まる部屋がこの日ばかりは重苦しい雰囲気に包まれていた,徹夜に近い頭だけがやけにじんじん とした、家内も勿論このニュースを読んでいた、「どうするの?」の問に、ただ「判らない、、」と答えるのが 精一杯だった。 次の日は私の気持ちの様に雨だった、先ず情報の収集が必要だった、ホンダの色々な部門にお願い して事故を起こしたローラースルーの状況を調査しようとしたが、警察の方で保管してる為全く見る事 は出来なかった。 我々は事故の調査書などを調べたが事故の概容は判ったが肝心のローラースルーの詳しい事は 判らなかった、事故を起こした男の子の方は状況が状況の為に調査することはあきらめた、後は どうする事も出来なかった、だだローラースルーには特に問題があるという様な世間の反応が無い のが唯一の救いだった。 当然研究所の中でもこの事件に対しての関心高かった、所長等関係者に先ず現状をかいつまんで 報告した、我々は製品に対して十分な信頼感をもっていたがそれにも優る不安が大きく追いかぶさって 来ていた、本当にブレーキは利いたのだろうか?、何処か突然折れたりしたのだろうか?等など、、 我々は取りあえず気になる所のテスト結果等の資料の整理等を手がける事にした。 予想もしない追い討ちの事件が起きたのは丁度5日後の朝のことだった。食事を取りながら 開いた新聞には大きな見出しで「ローラースルー又死亡事故!」、「入学を来月に控えた幼児が再び 悲劇!!」「警察ではローラースルーの安全性を検証を始める」、、私は新聞を見たまま本当に立ち すくんでしまった、手が戦慄くのを感じた、「なんで又、、、同じ、、、」言葉にならなかった。 どうしてこんな事が続けて起るのだろう、ましてや新入学を目前にして2人も、、、世の中の親誰もが 一番楽しみにしていた子供が、、と考えると、あまりにも惨い仕業で私は悪魔の仕業としか考えられ なかったキット邪悪な何者かが楽しんでいると信じざるを得ない致命的な強烈なKOパンチだった。 それから悪魔が連れてきた様な地獄の様な日々が続いた、警察に提出する数多くの資料、テスト結果、 実機、工場の生産設備説明、検査報告書、販売資料、取扱い説明書、等などの準備と説明に朝から 夜遅く迄西に東に奔走する毎日の連続だった。 売れ行きは突然「0」になった、殆どが返品となり生産はそれまで10万台/月作っていたものが完全 に停止し3個所にあった工場ラインは全て閉鎖されてしまった、勿論TVのCF放送も中止された。 2ヶ月以上経って我々の必死の説明の甲斐があって警察は「ローラースルーの安全性には問題 無い」という声明を出し新聞にも小さく発表されたがもう後の祭りだった、市場は完全に消滅して 2度と立ち上がる事は無かった、残ったローラースルーは全てアメリカ向きの「kick’n go」に生まれ 代って海を渡って行ったのだった。 しかし我々には「ローラースルーGOGO」という輝かしい名前と、開発者の誇りと、総計100万台 の生産実績等がしっかりと残されたのだった。 ー完ー
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