おやじさんとの日々(その�検�

エピソード続き

前頁迄の記事

*初めてのおやじさん
*怒られた、怒られた
*こっちの方も少しづつ要領が,,
*小さな事ほど大きく怒られた
*本当に社員の事を考えていた社長だった
*絶対悪いものは出すな!
*一万回に一回でも百パーセント
*明日の朝まで作っておけ!
*スペアタイヤへのこだわり
*落下傘で飛び降りろ!
*たまには誉められる事も
*最後に怒られたのは
*引退の言葉
*アメリカへ来た

TOP頁に戻る
このページの記事

*シャツは赤かった
*巨星はNOVAに

シャツは赤かった


●話はZ360の頃に戻るが、丁度Zの開発も最後の締めくくりとなる立ち会い検査の 前日の事だった。    立会い試験の準備をしている所へおやじが来た、研究所の真白な作業服の胸元から  赤いシャツを覗かせながら車の廻りを廻っていたが突然後ろ側で立ち止まり「何だこれは、  こんな物作りやがって!!」といってリヤーのサイドエンブレムを叩いた。眼は完全に  釣りあがっていた、私は仕舞ったと思って隣にいたデザインの責任者であるMさんを見た。   おやじが怒鳴った!「マークというものはその車の顔だ、これが立派なら車が 良く見えるだ、こんな基本的な事が判らないのかバカヤロー!!明日迄に直し なさい!!」Mさんはそれでも必死に「明日は立会い試験ですし、この画期的な  スポーティの車だからこういうマークの方が合うと思うのですが、、、」と説明したが、  「こんなもの明日見せるんじゃ無いぞ!!」と釘を刺されて仕舞った。  我々は途方に暮れた、勿論このエンブレムは立会い試験の対象品目ではなかったが、  何といっても時間が無かった、LPLであった私はもう諦めて謝るつもりで覚悟した。 Z360  そもそも、このHONDAーZ360という車は当時には珍しい実験的な試み を数多く取り入れていた車だった、従って、車の名称も,ACT,PRO、Z、 等、当時としては画期的なクラスネーミングを付けていた、又、機体も後で水中眼鏡 と言われた独特のデザインをしていた、中でも先鋭的なのはボディの塗装に光らない、 あの銃の黒光りのガンメタブラックを採用した事だった、又、これに従いボディの エンブレムものちのオートバイに流行った凹凸の無い薄い張りマークを採用しようと していた、これがおやじが気に入らなくてカミナリを落としたのだった。   其の夜、深夜近くに帰宅したが毎度の事ながら明日の事で良く寝付かれなかった、 おやじの怒った姿がそのノーネクタイで真っ赤なシャツの色が目に焼き付いて 仕舞っていた、そう言えばおやじに怒られる時は何故かおやじのシャツは何時も 赤かった様な気がするな、いやピンクの時もあったな〜、等と考えている内に  寝てしまったのか気が付くと朝だった。   やや重い足取りで会社に着いて早速立会い試験の車の所に行って妙な雰囲気を感じた 、何とデザインの責任者のMさんが黙々と何か作業をしているのであった、 覗き込んで私は驚いた、そこの車の側面には立派な立体の豪華なエンブレムが 光っていた。   驚いて放つ「どうしたの」の言葉にMさんは真っ赤な目を擦りながら「仕方ないから 徹夜で作りしましたよ、触らないで下さい粘土ですから、、」と、確かに良く見ると 粘土で形作った上に薄い銀紙を切り貼りして一見本物に見える最高の出来映えの 芯からの力作であった、そこに私はおやじについてゆく開発者の根性を見た思いだった。  「有り難う!」私はMさんの粘土にまみれた手をしっかと握り締めた。   多少ひやひやしていたが立会い試験は無事に終了した、直ぐおやじがやって来た、 我々はエンブレムを見せ「そうだよこういうので無くちゃ、、」と承認を貰う事が 出来た、おやじはそれが粘土で作られ銀粉塗装してある事は判っていたがそんな事は  全く問題にしていなかった、要するに考え方が正しければOKであった。その時の  おやじの服装は昨日とは少し違ったが赤に白いボタンの開襟シャツがおやじ専用の  チャックの付いた真っ白な作業服の中から覗いていた。   おやじは色が白いので本当に良く赤い色が似合った人だった、おやじの思い出には 必ずこの赤シャツが付いてまわっている。

巨星はNOVAに


●おやじがアメリカから帰ってからも忙しいリサーチの日々が続いた、私は何回も全米  の各地の販売店を廻って車の情報を纏めて本国の研究所に報告していた、この間にも日本  から色々なおやじさんの元気な活躍の情報が届いていた。   駐在も4年になろうという頃、新しい会社が発足しその4輪開発部門を統括する仕事の  ため帰国する事になった。  それは本田の全製品の用品を開発、製造、販売する会社だった、私は又おやじさんに逢える  のか?との期待にちょっぴりと胸を膨らませた、しかしその頃おやじさんはもう日本の 本田宗一郎として活躍していて私にはもう雲の上の存在に成りつつあった。   新しい会社での仕事も色々と難しく且つ面白い開発が多く、時は瞬く間に過ぎて行った、  仕事も順調に捗り、色々開発した新製品も売れ行きも好調で会社も伸びて行った。  暫くして2輪関係の仕事も合わせて見る事になり、あのRHEOSのヘルメットの開発も  やるようになった。この頃本田宗一郎の朗報が届いたアメリカの自動車殿堂に日本人として  初めて入るという情報だった、他人事でなく嬉しかった、おやじさんはもう世界の 本田宗一郎になり、私からはもう手の届かない存在となっていた。   HONDAがエンジンでF−1に参戦して勝ちはじめコンストラクターズチャンピオンを 獲得し最盛期の頃だった,車体がマクラーレン、ドライバーはセナとベルガーという最強の  組み合わせで臨み連勝を重ねていた、我々もこのチャンスを利用してRHEOSヘルメット  をセナとベルガーに使って貰おうという事になり、交渉を行い今期より採用して貰うこと  となったのだった。   その日ベルガーから届けられたパスでHONDAのパドックに行き色々見ている中に  急に賑やかになったと思ったら何とおやじさんが現れた、珍しくバーバリーのあの茶色  の縞シャツを着ていた、相変わらず賑やかに大きな声で話をしていた、私は「今日は!」  と挨拶をしたがおやじさんは「おう」と返事して手を上げて呉れたが、私の事などより  F−1の方に興味深々で、盛んにあちこちを熱心に覗き込み、時折質問をして肯いていた、  私は昔の頃のほんとに技術一本のおやじを思い出した。   全然変わっていなかった、私はおやじさんの邪魔しては悪いと思いパドックを後にして  スタンドに戻ったが、そこからまだパドックのおやじさんが談笑しているのが見えた。  しかしこれがおやじさんと逢った最後となってしまったとはその時は想像も出来なかった。   夏の暑い日だった、朝から開発の評価会議で討議をしていたが、突然席を外していた  kさんが入って来て、私の肩を叩いて黙って親指を立て、そして下向きに下げて「駄目だって」 と一言、言った。私は一瞬判らなかったが直ぐその表情から理解した「おやじ?」 驚いてつぶやく言葉にkさんは黙って肯いた、私は思わず背筋に水を掛けられた様に感じて 茫然となって立ちすくんだ、そして思わず「あ〜、可哀相に」と言う言葉を呟いてしまった。   良く知った知人の訃報にも感じなかったこの「血のひく様な感じ」を感じたのは心底から  おやじを慕っていたからだろうか?、その日はその後何を知ていたのか記憶が無い、多分 ボーっとして時折おやじを思い出していたような気がする。   おやじが具合が悪い話は聞いていた、しかしあの元気なおやじが死ぬなんて本当に  信じたくない話だった。   本田宗一郎の葬儀は公には行われなかった、皆の貴重な時間を裂き、行列は近所に迷惑  を掛け、そんな葬儀はやるな!という遺言だと聞いている、死んでまで人のことを思遣る  いかにもおやじさんらしい決断であった。その代わり皆が時間を気にせずリラックスして 参加できる「お別れ会」が各製作所等の拠点で順次行われた。  巨星はついにNOVA(超新星)になった、NOVAとなって次の新しい星を作るべく  ホンダマンの心に、そして全世界の人々に深い思想を刻み込む為飛び散って行ったのだった。
ohaka   富士霊園の一角に静かに眠る御霊のご冥福をお祈りします       1999年4月中旬再度お参りしました、お花は常に一杯です            

 完



TOP頁に戻る

このホームページのホストです。無料ホームページ をどうぞ