おやじさんとの日々(その�掘�

エピソード続き

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*初めてのおやじさん
*怒られた、怒られた
*こっちの方も少しづつ要領が,,
*小さな事ほど大きく怒られた
*本当に社員の事を考えていた社長だった
*絶対悪いものは出すな!
*一万回に一回でも百パーセント
*明日の朝まで作っておけ!
*スペアタイヤへのこだわり

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*落下傘で飛び降りろ!
*たまには誉められる事も
*最後に怒られたのは
*引退の言葉
*アメリカへ来た

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*シャツは赤かった
*巨星はNOVAに

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落下傘で飛び降りろ!


●それは確かある冬の大雪が降った時の事であった。2日にわたって降り続いた 雪の為に交通は大混乱、鉄道も各地で不通となる始末であったが、幸いにも 次の日は晴天になった、我々もやっとの思いで会社に行って仕事を始めたさなかに おやじのカミナリが落ちた。 例によって「直ぐ直しなさい!」の言葉に我々は直ちに対策図作りに没頭した、しかしその 図面の部品は特殊なもので、新潟県のあるメーカーでしかできない物であり、又行って 説明も必要であった。 暫くしておやじがやってきた、「どうだ!出来たか?、、」「済みませんもうすぐ出来ます、、」 こういう応答をしているとき、隣にいた同僚が助けるつもりでか口を挟んだ、「社長、図面は 出来ても列車も車も不通で○○社に行けないんです」 とたんにおやじの目が釣り上がった「何だ、バカヤロー!、、なぜ飛行機をチャーターして落下傘 で飛び降りないんだ!!、、」。 皆は一瞬度肝を抜かれて返事も出来なかった、おやじの顔は真剣で本気でそう考えており 決して冗談では言っていない事が判った、さすがに皆沈黙の侭であった、おやじの カミナリは続いていた。 良い物を得る為には可能な限りの手段を探す、その執念にも似た考え方に研究者おやじさんの 意地を見た出来事だった。先日の大雪の時にこの事を思い出した、又、雪が降る日には 思い出すことだろう。

たまには褒められる事も


S800 ●おやじと言っても何時も怒っているばかりではない、時たまトイレでばったりあう事がある すると必ず「おい!あれどうなった?」等と聞かれる、向こうは気軽に聞くのだろうが聞かれた方は たまったものでない、オシッコも止りそうになるあれ、と言われても一杯いわれているのでどの事を 指しているのか突然なので混乱してしまうそこで「あれですか、、えーと、、」と言葉を引き延ば してみるが、混乱した頭ではまず思い付かない、そこで仕方なしに「ハイ!今、大特急でやってます から、、」と答えておく、大抵「そうか!」と細かくは聞くことはない。 そんな時は、私はおやじが先に出て行くのを待ち、手を洗う物音を窺いながらじっと粘ってやり 過ごす事にしている、全く人騒がせな人だ、でもセッカチな人だからこちらが出てゆくまで私を待って いる事はまずない、そんなある日の事だった。 S800のリヤーサスペンションのチエンの騒音対策で、チエンをダブルで懸ける様に設計変更 をやっている時だった。 おやじがやってきて私の図面板の上でどうすれば2本のチエンに均等に力が 掛ける事が出来るか?という構造をあれやこれやと検討しアイデアを捻っていた。 「どうだ!これなら良いだろう」そういつたおやじの案は複雑怪奇とも言える構造だった。 しかしすぐ作れと言う、他に妙案はなかった私はしぶしぶ了承した。 おやじが居なくなってから私は冷静になって考え妙案を思いついた、早速ポンチ絵(手書きの構造図) を書き上げた、このままではおやじの案を作る羽目になつてしまうので、私はポンチ絵を持って直ぐ 社長を探しに社長室に向かった。 社長室には運良くおやじがいて、所長に自分の案を黒板に書いて得意げに説明している所だった、 私が入って行くと「なあ〜おまえこれで良いだろー」と同意を求めて来た、私は暫くその説明を聞いて いたが間が開いたので、恐る恐るあの〜これは私の案なのですが、、」と言ってポンチ絵を見せた、 おやじは「どれ見せてみろ、、」と言って机の上に広げた私のポンチ絵を眺め、咄嗟に理解した、流石 おやじだった。 「おお、そうか!これはいい、いいよ、俺のは駄目だ、」というと何が悪戯書きを見つかった 子供のように黒板をあわてて消しながら、 「おまえ頭がいいな、所長これいいよ、これで行こう」と言ってから私の肩を両手で何度も 叩いて褒めてくれた。 私は胸がじんと熱くなって来た、ふわふわして足が床につかない気持で席に帰って行った。。 その日からおやじが本当のおやじのように益々身近に感じられるようになって行った。

最後に怒られたのは


●最後に怒られたのはホンダZ360の開発も大詰めとなった夏の事であった。 何時ものように最終図面のチエックをやっている私の所に、狭山製作所の「性能」(品質部性能研究課) から電話が掛かって来た。「おやじが”性能”で荒れているから直ぐ来てくれ」との事「何の件だ」と 聞いても「判りません兎も角直ぐ来てください」と切羽詰まった声が嘆願してきた。 私はとにかく直ぐ行くからと答えると、交通違反を覚悟しながら車を走らせた。   そう言えばおやじに怒られて呼び付けられる事はこれで何回めだろうか?、一度なんか名古屋の足回り部品 メーカーに出張していた時に電話が掛かって来た事があったっけ、あの時はメーカーで打ち合わせを していて夕方5時半を廻っていた頃だった、研究所から電話が掛かって来てS600の事でおやじが 物凄く怒っている、ともかく対策品を至急作る必要があるので飛行機で直ぐ帰って来いと言う 内容だった。   メーカーとの打ち合わせを早々に済ませ、タクシーを手配して貰って小牧空港迄飛ばして7時の 飛行機に飛び乗った、この頃出張は新幹線しか認められていなく、飛行機は役員のみ許されていた時 だった、私は飛行機に乗れた嬉しさと、問題発生の不安が入り交じった複雑な心境で月の光に照らされた 富士山を眼下にしていた。   結局研究所に帰り着いたのは9時過ぎであったさすがにおやじは帰っていなかった、待ち受けていた 仲間にお詫びを言って事情を聞き、それから必死で図面を作って何とか翌朝手配にこぎつけた事もあった。   そうこう思いを巡らしているうちに狭山製作所についた、早速「性能」に駆けつけるとおやじが部長と 話をしていた、私の顔を見るととたんに眼が釣り上がった、「こっちへ来い!これは何だ!」と運転席 の下を指差している、私は思わず近寄って覗き込んだとたん頭にゴツンと一発見舞われて仕舞った。  私はすっかり手の届く範囲に近づいてはいけないと言う法則を忘れて仕舞っていた。 「なんだこのスイッチは!なぜこんな所に在るんだ!、、」見るとそれは新しく法規で制定された 緊急用ハザードスイッチであった、開発が既に完了した後で適用を決めたので付ける所が無く、考えた 末に運転席の右下に付けていたのを見つかってしまったのだ。     私の説明におやじは少し怒りを収めたが、でももっと目の前に付けろと主張した「バカヤロウー緊急用 なら直ぐ見える所に無くちゃだめじゃねーか、使うときは焦ってんだよ、そうだろー!、、」私は開発の 事情を必死で説明してスイッチのノブの部分を真っ赤にして大型化する事でしぶしぶ了承してもらった。 今ではどの車もこのスイッチは計器盤の良く見える所に配置されているのが常識となっているが、 おやじの商品に対する考え方はずっと以前から”お客さんの目で”と言う考え方を徹していたのは流石と   言うしかなかった。 この事がおやじに直接に怒られた最後の出来事となったのではっきりと覚えている。

引退の言葉


●本田宗一郎社長が藤沢副社長と共にサラリと引退して河島喜好氏に社長の座を譲ってからも、   相変わらずおやじさんは研究所に現れていたけれど、その言う事はがらりと変わって行った。   最高顧問となってもう社長でない事を自分に言い聞かせているように、言いたい事も意識的に   押さえているのがその振る舞いから滲み出ている事に私たちは気づいた。    前のように本気で怒り出す事も依然としてあったが、後で少し冷めて来たときに言う   言葉が「直ぐやりなさい!」から、「良く検討してからやるように」と言う様にトーンにダウン   する事が多くなっていった、又、少しずつ研究所に来る回数も時間も減って行った。    おやじが引退してから数ヶ月してホンダ名物アイデアコンテストが鈴鹿サーキットで   開かれた、私も研究所代表として部下を連れて参加していた。    アイデアマンのおやじさんも自分の発案であるこの大会の名誉会長として招待されていた、   それは引退して初めての全社的なイベントでもあった。    アイデアコンテストは大成功だった、おやじは皆の作品の審査の至る所でリーダーに話を掛け、   ある時は作品に跨り、大笑いをしたりして、心の底から楽しんでいる様子だった、作品の製作者達は   おやじさんの一擧一動に気を配りながら気に入って貰う為の汗だくの説明が随所で展開された。    全作品の審査も終わりいよいよ皆がメインスタンドに集まって発表の時となった、   主催者の挨拶が終っていよいよおやじの登場の場面となった。   「それでは皆さんお待ちかねの本田最高顧問にご挨拶をお願いします」このアナウンスに参加者   全員は一斉に歓声を上げて拍手を送った、それは久しぶりに見る社長に対する無意識に湧き出た   拍手だった、おやじは例によって手を振り高く掲げながら入場して来た、全員の歓声と拍手は   一段と高まった。   おやじの挨拶を始まった。   「いや〜今日はありがとう〜、すっかり楽しませてもらったよ〜、このパワーはたいした   もんだよ〜なんたってね〜・・・・」おやじは独特の調子でユーモアたっぷりで話を続けた、   皆はおやじの話術にすっかり引き込まれて眼を輝かして聞いていた、暫く皆を笑わせた後   おやじは隣にいる新社長の方をみて、    「・・・今度この河島に社長を代わって貰ったんで、お陰さんで俺は好きなGOLFを楽し   まして貰っているよ、、、だけどね、俺も大変いい加減な社長だったけど、今度の社長は   俺よりもっといい加減な社長だからな!皆がちゃんとしてくれないと大変なんだよ、   頼んだよ!!、、」        会場はドッと爆笑に包まれた、私も大笑いしながらもその言葉を聞いて胸にグツと   来るものがあった、それは”よし!!おやじがいなくても我々が本田技研を守って盛り   上げて見せるぞ” と沸き上がる固い決意だった。    全く型破りな挨拶だった、しかしほんとに素晴らしくて皆をやる気にさせる最高の   挨拶だった。アイデアコンテストの優勝にも匹敵する様な素晴らしい体験に私は感動して   立ち尽くしていたのだった。

アメリカに来た


●おやじの引退で大きく揺れたHONDAもやっと河島新社長の元で、新しい方向へ更に力強く着実に 進み始めていた。私は四輪の開発から離れてレジャー商品の開発を総括していた、あのローラースルー 等のレジャー商品で大ヒットを飛ばした後アメリカ向けの3輪オートバイ(ATC)等の開発でアメリカ へ再三出張してコンセプト固め等していた事もあり、アメリカのロスアンゼルスの本田技術研究所支社 (HRA)に駐在する事となった。

いざ行って見ると、良く言われる「出張天国、駐在地獄」正にそのもので華やかな出張の時と雲泥の差 の毎日、一緒に連れて来た妻や子供たちにも試練は容赦なく降りかかってきて必死の毎日だった、 何と言っても誰もが必ず直面する英語との格闘だったが、それにもやっと慣れて3年程経った頃だった。

おやじがアメリカに来る!その情報はアッという間に駐在員の中に広まった。我々はどのようにして Mr.HONDAを迎えようか?と早速うきうきしながら計画を練り始めた、兎も角、このロスの研究所 の全貌が判るように、資料は大きく壁に張り色々な現物を用意して見せる事になり早速準備に取り掛かった。 おやじはHONDA米国工場の有るオハイオから廻って来るという、我々は長旅のおやじの体調等を 十分に考慮して計画を進めて行った。

その日は俗に言うロサンゼルス晴れの良い天気だった、前日ロス入りをしたおやじさんは午前中はまず アメホン(アメリカンホンダ)を訪問し、昼食会をアメホンとHRCの幹部でやることとになった。 会場に先に到着して待つていると、おやじさんは例の調子で手を高く振りながら入って来た、我々 駐在員は拍手で迎えたが、大勢いた現地のアメホンのアメリカ人は意味も分からず眺めているばかりで 拍手も殆どしないので、おやじは何か拍子抜けた感じのまま誰もいない用意されたテーブルに案内された。

honda3 私達は咄嗟に”こりゃまずいな”と感じた、そして近くに居た昔散々怒られた研究所の仲間達を呼んで おやじさんのテーブルに行った「最高顧問お久しぶりです、お元気ですか?」この言葉に顔をあげた おやじさんの顔が突然パッと輝いた「おう!何だお前達ここに居るのか、、、そうか、そうか、、」と言って  手を差し出した。

私も懐かしさのあまり目頭が熱くなるのを必死で堪えていた、おやじさんは皆としっかり握手をしてから やっと本来の調子で、オハイオで従業員全員と握手して廻った話し等を手振り身振りで賑やかに話し出した。

我々は一安心して合いの手を入れながら楽しく会食をする傍ら、午後からの研究所のプレゼンテーション をどうするか考えていた。その時には我々にはアメホンに於いて最高顧問が各職場を廻った時、Mr.本田 を知らない人も多くおやじが「よお〜!」と威勢良く各部屋に入って行っても顔を見上げるだけで”何処の おやじだ”という顔をする人が多く気まずい感じも多かった、という情報が入っていた。

会食も終わると我々は直ぐ研究所に電話を入れた、ともかく全所員に研究所の玄関に集合するように伝え 飛んで帰った。賑やかな事の大好きなおやじをどうすれば暖かく迎えられるか?、の答えは簡単だった、 兎も角盛大に迎えてやるに限る、という事になり、我々所員全員が玄関に来る道の両側に並びおやじの到着を 待受けていた。

honda1 車が着きおやじさんが降りたとたん全員が一斉に拍手をしてお迎えした、おやじは「いや〜こんちわ、 いや〜、いや〜」と言いながら顔をくしゃくしゃにして両手を挙げて皆の拍手の渦の中を建物に入ってきた。 一先ず所長から研究所の概要などを簡単に説明し、早速各部門を見ていただいた、私はずっと一緒に案内 をしてまわった、おやじは久しぶりの研究の現場に目を輝かせて色々と質問したり、感心したりしながら 見てまわった、その技術を理解しようとする態度は昔と全く同じで、何回となく当時の記憶がよみがえってきた。

  研究所のプレゼンも大好評のうちに終了し、夜は研究所の駐在員との中華料理店での会食となった。  おやじは明日のゴルフを前にして、好きなゴルフ談義を語っていた、私も「最高顧問、私はゴルフにはあの  ニュートンの法則”MV=M'V'”が成り立たない事が判りましたよ、加速度がないとボールは良く飛ばないん  ですよ」等といっておやじを大笑いさせたりした。大変に楽しい一夜であった、翌日聞いた話しによるとおやじは  「俺が叱った連中が皆よくやっているな〜」と感慨深くやや涙ぐんで語っていたという、、、。

honda2  おやじさんがアメリカを楽しんで帰った2〜3日した時、駐在員に直径15cm位の丸い瓶に入った紀州の  梅干しが一人一個づつ配られた、おやじさんのお土産が船便で着いたのだといって渡された。「エッ!  おやじが!!」手にした私はあまりのの感激で胸が詰まり、ただ手にした梅干しをじっと見つめてしまったのだった、

何より、おやじさんが日本を出る前から駐在員全員の事を考え、手間と時間の掛かる船便を使って迄自分の 訪問のお礼にと用意されたという、単なる手土産とは違うおやじさんらしい気の使い方が本当に嬉しかった。  当時はもうロスでは梅干しなど自由に手に入る時代であった、しかしそんな問題じゃなかった、何にもまして  素晴らしい宝物だった。それは長い間我が家の食卓に暖かい思い出の味を具えてくれた事は言うまでもない。

  多くの訪問者等が出張先では接待を受けるのは当たり前という様な風潮の中でおやじは本当のおやじだった。

  更に続く,,,
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